| 8回目 | |
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先日姉の光子と電話で話をした。何故だか二人とも酔っぱらっていたのか珍しく昔話に花が咲いた。昔話だなんて言いたかぁないが、悲しいことに僕はまだギリギリ超高校生級だと思っていたが、それは意識だけで現実は立派ではないが28をそろそろ向かえつつあるおっさん予備軍である。突然ですがその時咲いた花の話をします。 「僕は英才教育を受けてきた」 などとこんなところで言えば、「ほら吹き」と、言われるかもしれないが、とにかく僕は幼いころ『英才教育』を受けて育ったのです。 父、日出光について以前語りました。読んでくださったでしょうか。その父日出光は今でこそ還暦を過ぎ、人生の下り坂を猛スピードで走行中の今やおじいちゃんですが(ごめん日出光)若い頃がちゃんとあって、聞くところによると多少やんちゃもしてきたようです。そのやんちゃ具合もけっこうおもしろいのでまた今度記すことにします。日出光は今では演歌大好きお父さんだけれど、若い頃は外国のポップスやジャズもこよなく愛する若者だったらしい。そんな日出光が、大事にしていた大量のレコードが、多分今も僕の実家の押入れの奥の奥に押し込まれているはずなんだけれど、まだあるのかなあ。その日出光のコレクションは今思い出すとかなり摩訶不思議で、ジャケットは何処へやったのか、そのほとんどが裸でレコードラックに並んでいて、ジョージベンソンとベニーグットマンの間に北島三郎、プレスリーの隣に美川憲一、美空ひばりのとなりにグレンミラー、マイルスデイビスの隣にニルスの不思議な旅(ニルスは僕が買ってもらったもの)とか、なんというかとにかく釈迦力にロンパっているのである。話はそれますが、父が母と結婚した時の所持品は、ステレオ一式とコタツの板(麻雀をする為に必要なのだそうだ)、そして大事なレコードの山。それだけ。そんなものしかもっていない男と結婚した母も母だが、その話はココで語るのはやめておきます。 そんな父日出光が大事に(?)していたレコードのなかに、母も気にいった曲があった。名前は知らないのだけれど、どこかのジャズ楽団(?)の曲。テーマのトランペットがとても優しいメロディーを奏でていて、僕は今でも口ずさむことが出来る。不思議なことに母は僕と姉が幼い頃、僕ら兄弟を音楽への道を歩ませようとなど微塵も考えてはいなかったくせに、よく寝る前に「英才教育よ」と言って僕と姉にその曲をかけてくれていた。幼い子供にジャズを聞かせるのがどうして『英才教育』なのかまったくよく分からない。それはともかく、僕も姉もその曲が大好きになり、いつも「えーさいちょーいく(英才教育)して」とせがんでは、その曲をかけてもらい僕等姉弟はその曲を聴き終わってから、もしくは聞きながら僕らは眠っていたのだった。 あの曲なんていうんだろう。というかなぜ母はレコードをかけたのだろう。まったく今でも”そのふし”はあるけれど母は不思議ちゃんである。 英才=優れた才能 僕は優れた才能はもてなかった。母のように立派な人になれなかったし、父が望んだ野球選手にもなれなかった。ただ、音楽が好きなことだけはつづいていて、姉もどう見ても優れた才能の持ち主にはなっていないけれど、音楽好きな子として育った。そして今から10年前、僕は高校3年生の冬、さんざん悩んだり考えたりしたけれど、やっぱりどうしても好きな音楽をやりたくて、太鼓が叩きたくて、東京に行くことに決めた。今思えばよく父と母は許してくれただろうと思う。 高校三年生のある冬の日、家族皆で祖父利秋の家に遊びにいった。僕とは違い頭のとても良い姉は大学に進学していたので、僕ら家族4人それに祖父祖母と6人の顔が揃うのなんてほんとに珍しいこととなっていた。祖父の家は僕の家よりも山奥にあるため、さらに寒く、雪もたくさん積もる。また話がそれるけれど「え、島根って雪降るの?」という驚きの声が返ってくることがここ東京では多い。日本海側に位置し、「うら日本」なんて呼ばれていたりする山陰地方というところは、冬は寒く、雪がよく降ります。地球の温暖化が叫ばれ始めたころから、雪の量もぐんと減ったけれど、やっぱり冬は雪が降る。節分の豆まきなんて、鬼さんにはとても申し訳ないが、力いっぱい「鬼はそとー」と雪一面の庭に追い出していたものです。僕等一家は雪に覆われた田んぼのそばで焚き火をしていた。空に一筋の煙が上がっていたのを覚えている。どうでもいい話題、他愛も無い状況で、家族皆が笑っていた。雪の中で何を話していたんだか思い出せないのだけれど、日本海側独特の紅茶味のケーキを汚れた靴の踵で押し固めたように暗く重い空を見上げながら、何故か皆で笑っていた。そのとき、母が何かの弾みで滑って雪の上にしりもちをついてしまった。みんなで母を助け起こしたんだけれど、母の鼻が寒さのため、いや、そうじゃないのだろう。赤かった。母は笑いながら泣いていた。父は笑いながら遠くを見ていた。姉も笑っていたけれど、微かに瞳が光っていたように見えた。今、僕ら家族はみんなおなじことを考えているのだと思った。僕はここ記すことの出来ないくらいずっと悪ガキで、姉はずっと反抗期みたいに生意気で、決して仲のよい家族とは言えなかったけれど、でもやっぱりちゃんと家族だった。僕が東京に行ってしまったら、父と母は二人きりになってしまうし、家族皆で笑ったりすることなんて滅多になくなってしまう。『さみしいな』みんなそう思っていたんだと思う。 「ばか家族」とか、言わないで。今では素敵な思い出です。そして幸せな子でした。悲しいことに姉と電話で話をするまで、すっかり忘れてしまっていました。僕は思うのだけれど、こんなすぐにちこょっと手を伸ばすと触れることの出来る暖かく幸せな出来事は、思い出だけではなく、いつもでも毎日でも自分の回りに転がっているものだと思う。しかし心が畏縮していたり、辛いこととかで乾いていたりすると簡単に見過ごしてしまうものです。気を付けねば。更に今ここで堂々とここで”おセンチな男”っぷりを披露してしまった僕だけれど、これは決して恥ずかしいことではないと思う。それより、日頃転がっている小石のような幸せにつまずかないほうがよっぽど恥ずかしいと思う。 その年の雪が溶け次の春の訪れと共に、僕は東京に来た。 そしてあの雪の日に思ったとおり、今では家族みんなで揃うことなんて、ほんとにほんとうにまれになってしまった。僕が上京することに大反対だったおじいちゃんは80歳になった。太鼓を叩くことを辞めない僕について「トシキは”やれん”(「ダメだ」の意)」といい続けていたが、ようやく最近ではくしゃくしゃと顔にしわを寄せてうれしそうな顔をしてくれるときもあるのだそうだ。 また、冬が来て、この東京にも雪がちらつく日も来ると思う、そんときはちゃんと思い出します。あの雪の日と僕の家族を。 おしまい。 |
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