5回目 『走る男』
 僕の家に遊びに来た事のある人間の中には恐らく見た事のある人もいるのではないかと思うが、僕のアパートの周辺では、度々『走る男』が度々目撃される。
 走ると言ってもジョギングなどという悠長な輩ではなく、但、とにかく全速力で走るのだ。ひと度その足が大地を蹴れば、僕の家の最寄りのコンビニエンスストアからドカン!と飛び出し、階段を駆け上がりアパートのドアに激突せんが如く、とにかく速いというよりは慌てふためくといった感じなのだが、其の迫力は並ではない。階段ですれ違ったり、又は追い抜かれでもすれば張っ倒される勢いだ。
 そう、何を隠そう彼は僕の部屋の一つ隣に住んで居るのだが、彼はすれ違い様に挨拶を交わす一瞬の余裕さえ僕に与えてはくれないのだ。何しろ彼が引っ越して来てからの数カ月間、歩いている姿を未だ目撃した事が無いのだ。いや違う、たった一度だけだが僕は、彼がそのスピードを止めたのを見たことがある。
 
 それは静かで細かな雨が降る夜の出来事だ。僕は近くのコンビニで買い物をして、アパートの二階への階段に足をかけた、その時僕は背後に但ならぬ気配を感じ後ろを振り返ると『走る男』がいつものスピードで猛進して来た。その刹那、ガシャガシャッ!!という物凄い音。驚いて後ろを振り返るとそこには、雨に濡れたコンクリートの床に倒された自転車と共に『走る男』が横たわっていた。恐らく彼は何時ものようアパートまで激走して来たのだが、其のスピードと 雨に濡れた地面と靴底に掛かる摩擦の計算を誤り、激しく転倒した挙げ句、何台かの自転車の列に突っ込んだのである。正に”自転車まみれ”といった姿で あった。
 僕はその光景を但、呆然と眺めている事しか出来なかった。「大丈夫ですか?」と声をかけることさえ出来なかった。彼は「うう・・。」といううめき声を上げながらも素早く立ち上がり、足を引きずりつつ二階への階段を昇り、自身の部屋へと帰って行った。其の姿にあの火事場を駆けるメロスの様(?)な凛と した『走る男』としての威厳は、既に何処かに消え去っていた。そんな彼にどの様な言葉をかける事が出来ただろうか。いや、決して出来なかっただろう。
 しかし安心してほしい。彼はあの事件を微塵も感じさせる事無く今日も走り続けている。現在もドタバタうるさいもん。喜ばしい事だ。なんか面白いし。
 あの時を振り返ってみると、もしも僕が一つだけ声を発する事があったとすれば、「てめー倒してった自転車、もとに戻して行けよなコラ!」かな?

おしまい。 


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